愛甲の架空鉄道あれこれ
2019-07-08T21:23:38+09:00
aikoh_denki
ネタ帳兼ライナーノーツ。あることないことひっくるめて、ぐだぐだと。
Excite Blog
湘南電気鉄道 Jimdo化
http://josoexp.exblog.jp/18290571/
2012-05-14T21:51:06+09:00
2012-05-14T21:36:02+09:00
2012-05-14T21:36:02+09:00
aikoh_denki
湘南電気鉄道
詳細は下記にて。
【湘南電気鉄道】]]>
湘南電気鉄道 路線図
http://josoexp.exblog.jp/18170631/
2012-04-21T12:50:00+09:00
2012-04-21T12:47:59+09:00
2012-04-21T12:35:48+09:00
aikoh_denki
湘南電気鉄道
大正期に開業したインターバンということで、旧街道沿いを走る感じに修正。
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常総急行 Jimdoに移行中
http://josoexp.exblog.jp/17726590/
2012-02-02T00:53:00+09:00
2012-02-02T00:42:39+09:00
2012-02-02T00:40:53+09:00
aikoh_denki
お知らせ
単に移行するだけではつまらないので、ブログやTwitterにUPしたネタも取り込みつつ、コンテンツを再構築しております。
http://josoexpress.jimdo.com/
なお、Jimdoのへの移行にあわせて、下記Geocitiesページについては更新終了といたします。
http://www.geocities.jp/aikoh_denki/joso/]]>
新しいカテゴリを作りました
http://josoexp.exblog.jp/17190403/
2011-12-05T00:31:00+09:00
2011-12-05T00:24:51+09:00
2011-12-05T00:19:54+09:00
aikoh_denki
Twitterより
いつでもどこでも、PCか携帯電話さえあれば、不意に思いついたことをメモとして書きなぐることができます。
その簡便性と即興性は、備忘録として申し分ありません。
また、他の方々とリアルタイムでコミュニケーションが取れるのも魅力的です。
その手軽さから、私も最近はブログよりもTwitterのほうでノウガキを垂れることが多くなりました。
ただ、せっかくの思いつきを垂れ流すだけではもったいないので、それをまとめるべく「Twitterより」というカテゴリを作りました。
このカテゴリは、http://twitter.com/_aikosan_ でのノウガキを転記するものです。
よって、上記のアカウントをフォロー頂いている方にとっては重複となりますが、なにとぞご容赦の程を。]]>
湘南電気鉄道 事始め
http://josoexp.exblog.jp/16107351/
2011-08-13T00:44:00+09:00
2011-10-20T00:34:18+09:00
2011-08-13T00:35:45+09:00
aikoh_denki
湘南電気鉄道
■沿革
神奈川県下のうち、相模湾沿いのいわゆる「湘南」と呼ばれる地域は、明治中ごろより官鉄(東海道本線)が通じていたが、
これはどちらかというと東名阪の長距離輸送に主眼を置いた鉄道であり、通過する沿線地域の発展に直接与するものとは言いがたかった。
その一方で、官鉄の開業以来、湘南は帝都・東京や県都・横浜から身近な行楽地・避暑地として注目を浴びるようになり、
政財界の重鎮や高級軍人、文化人などが競って別荘を建てるなど、現在の湘南にも通じる開発の萌芽が見え始めていた。
このような流れの中、政財界の支援を受けた地域の有力者が中心となって、1915年、湘南電気軌道が設立され、横浜と小田原を結ぶ電気軌道の敷設が始まった。
横浜側のターミナルは弘明寺とし、弘明寺から横浜電気鉄道(のちの横浜市電)に乗り入れて横浜の都心部である伊勢佐木や桜木町を目指した。
一方、西のターミナルは小田原とし、当時開通していなかった官鉄熱海線に先駆けて横浜-小田原間を結ぶことを意図した。
手始めに横浜側の弘明寺-茅ヶ崎間が1918年に開通。
途中、相模川と酒匂川の架橋に手間取ったものの、小田原には官鉄と同時の1920年に到達し、ここに湘南電気軌道は全線開通を見た。
アメリカのインターバンはもとより、阪神電気鉄道などの先行する同業各社に範を取ったため、横浜や小田原の市街地の一部に併用軌道を有するものの、郊外の専用軌道では高速運転を行う近代的な鉄道であった。
これにあわてた官鉄改め鉄道省は、1925年までに東海道線の電化を実施したが、湘南電軌の頻発運転の前に見る見るうちに旅客を奪われていった。
開業直後に関東大震災の被害を受けたがこれも何とか乗り越え、東海道線からの旅客を奪うことに成功した湘南電軌と沿線は順調に発展していった。
が、1925年、ついに湘南電軌に強力なライバルが現れる。
同じ「湘南」を名乗る湘南電鉄である。
既得権を守ろうとする湘南電軌と、三浦半島へと版図を広げようとする湘南電鉄。
同じ横浜を起点とし、上大岡までの横浜市内での輸送で完全に競合する両者は相容れるはずもなく、互いに反目しあう存在であった。
横浜市電とタッグを組むものの、横浜市内に併用軌道を有する湘南電軌に対し、湘南電鉄は高速運転を意図した高架線を敷設し、さらには兄弟会社たる京浜電鉄と組んで東京への直通を企てた。
このライバル関係は、1942年、湘南電軌と京浜電鉄が大東急に併合され、呉越同舟時代を迎えるまで続いた。
終戦後ほどなくして、大東急は内外の圧力によって瓦解する。大東急に併呑されていた各社には独立が戻った。
その際、地域的に隣接している旧・京浜電鉄と旧・湘南電軌の併合も取りざたされたが、架線電圧や軌間の違い、そして何よりも両社の反目ぶりのせいで、結局、元のさやに収まった。
こうして湘南電気軌道改め湘南電気鉄道(湘南電鉄)は再出発を飾ることになる。
時代は下って1960年代。
高度成長とともに横浜市内も自動車交通の輻輳が目立つようになった。
そんな中、横浜市は市電の廃止を決定。生麦線の廃止を皮切りに、全廃に向けての路線の段階的な縮小を開始した。
湘南電鉄は長らく弘明寺より横浜市電に乗り入れる形態を採っていたが、併用軌道では車両の長編成化に限界があることや、道路混雑により定時運転が難しくなってきたため、横浜市電の廃止に合わせて、独自に横浜都心への直通地下線の建設を計画する。
そして1968年、湘南電軌以来の乗り入れ先である市電弘明寺線の廃止と同時に、上大岡から桜木町を結ぶ地下新線が開業。
途中には電停の代替として弘明寺、蒔田、吉野町、阪東橋、伊勢佐木の各駅が設けられた。
同時に架線電圧も600Vから1500Vに昇圧され、湘南電鉄は15m級の電車が併用軌道を転がる古色蒼然とした状態から、18m級3ドアの6両編成の電車が行き交う近代路線へと変貌した。
その後も湘南電鉄は、電車の新造や駅の改良、あるいは桜木町から横浜市営地下鉄に乗り入れて新横浜やあざみ野までの直通運転を行うなどの積極的な投資や施策を行い、通勤通学や日常の足、また、湘南や箱根・伊豆方面への観光の足として活躍している。]]>
ターミナル二題
http://josoexp.exblog.jp/16095473/
2011-08-10T22:40:00+09:00
2011-10-20T00:34:18+09:00
2011-08-10T22:31:47+09:00
aikoh_denki
架空鉄道全般
東上鉄道の大塚辻町と武蔵野鉄道の護国寺。
武蔵電鉄の天現寺と麻布ニの橋。
分岐点は祐天寺か中目黒のどちらかということで。]]>
東へ
http://josoexp.exblog.jp/16079035/
2011-08-08T00:16:00+09:00
2011-10-20T00:34:18+09:00
2011-08-08T00:07:50+09:00
aikoh_denki
The NGY Project
現実世界では豊橋で止まっている路線を、浜松あたりまで延ばせないかという目論見です。
とりあえずルート提示から。
おおざっぱに、ルート候補としては2つ。
すなわち、豊川から本坂峠を通って三ケ日に抜け、猪鼻湖の北岸を経由して気賀に至るルートと、
豊橋から豊鉄の路面電車に近いルートを辿りつつ、多米峠を越え、猪鼻湖をぐるりと回りこんでいくルートの2つです。
後者は、猪鼻瀬戸(猪鼻湖と浜名湖の切れ目)をショートカットしていくルートも念頭に置いております。
浜名湖北岸から浜松市内へは、遠鉄奥山線を乗っ取るか、もしくは短絡新線を敷設しようと考えています。
さて、肝心の敷設年代ですが、この区間の場合、政治的理由よりも技術的な理由からの裏づけが必要です。
というのも、どちらの峠を越えるにしても、鉄道である以上は3kmから5kmぐらいの長大トンネルを掘る必要があるだろうと踏んでいるからです。
よって、峠を越えるタイミングとしては、それぐらいのトンネルが比較的容易に掘れるような技術の蓄積が十分に行われた年代になると推測します。
具体的には、1920年代後半から1930年代前半でしょうか。
参考までに、近鉄の旧青山トンネル(3,432m)は1930年開通、旧生駒トンネル(3,388m)は1914年開通です。
あとは、史実では過剰投資のツケに苦しんだ愛電が、どうやってカネのかかる長大トンネル掘削と浜松延伸を成し遂げたのかを考える必要もあります。
豊川・豊橋から浜松へ、東海道線とは別ルートで鉄道を敷設する動機や政治的なバックボーンそのものはいろいろと浮かびますが、国鉄二俣線や(悲運の)光明電気鉄道、それに前述の遠鉄奥山線や西鹿島線などとの兼ね合いも詰める必要があるので、いささか難しいところです。
それらについては、また別の機会に考えることにします。]]>
忘れてましたが
http://josoexp.exblog.jp/16078664/
2011-08-07T23:21:00+09:00
2011-10-20T00:34:18+09:00
2011-08-07T23:13:05+09:00
aikoh_denki
お知らせ
フォロー等はお気軽に。
ただし、業者と広告はお帰りください。
http://twitter.com/_aikosan_]]>
分散型ターミナル
http://josoexp.exblog.jp/15275375/
2011-04-16T02:07:00+09:00
2011-10-20T00:34:18+09:00
2011-04-16T02:01:30+09:00
aikoh_denki
The NGY Project
名古屋で架鉄をこしらえようとすると、何はさておき、これがポイントになると思います。
そんじょそこらの架鉄よりもはるかに架鉄臭い名鉄を、いかにして成立させないか。
その辺の紆余曲折の理由付けについては改めて考えるとして、まずは「名鉄が存在しない名古屋市」というものを想像してみたいと思います。
各私鉄のターミナルが独立型だった場合の名古屋市街地図。
名鉄がないということは、新名古屋での旧・愛電線と旧・名岐線の結節もないという前提で描いてみました。
つまり、名古屋市内の各地に、各私鉄のターミナルが分散している状態です。
各ターミナル間は名古屋市営地下鉄がフィーダーしています。
愛知電気鉄道(緑)は、かつて名古屋随一の歓楽街だった大須から、国鉄との結節点・金山や知多方面への支線を分ける神宮前を経て岡崎、豊橋方面へ。
名岐鉄道(青)は柳橋から押切町までの併用軌道区間を地下化により克服し、名古屋~岐阜・犬山・佐屋方面へ頻発運転を行っています。
尾北鉄道(黄)は上飯田の孤立ターミナルから地下鉄に乗り入れ、新栄町まで直通運転を行っています。
それを横目に、東から瀬戸電鉄(赤)がお堀電車の別名の通り、名古屋城の外濠を辿って堀川まで達していますが、お濠区間は急カーブが災いして電車の両数に制限がある…という設定です。
(2011/4/16 11:11 加筆および地図差し替え)]]>
ぐぬぬ…。
http://josoexp.exblog.jp/15275074/
2011-04-16T00:45:14+09:00
2011-10-20T00:34:18+09:00
2011-04-16T00:39:24+09:00
aikoh_denki
架空鉄道全般
【作者メモ】追加のお知らせ
http://josoexp.exblog.jp/13043088/
2010-03-24T20:56:00+09:00
2011-10-20T00:34:18+09:00
2010-03-24T20:56:35+09:00
aikoh_denki
JR常武線
逐次、各記事に【作者メモ】というリンクを追加していきますので、よろしければご笑覧ください。
なお、Exciteブログの構造上、各記事へのアクセスが面倒かと思いますので、直接リンクを貼っておきます。
【作者メモ】の追記が終わった記事から、こちらに追加していきます。
JR常武線 -関東最後の国鉄型気動車の王国を訪ねて- / 沿革
以下、2010年10月31日22:05に追記。
主役 / 相模線色 / 混結 / 編成美
以下、2010年10月31日23:46に追記。
異色 / 夕立 / 残暑
以下、2010年11月3日0:36に追記。
異端 / 余生 / 邪険
以下、2010年11月3日21:24に追記。
灼熱 / 交換 / 新鋭]]>
エピローグ
http://josoexp.exblog.jp/12870099/
2010-02-20T01:00:00+09:00
2011-10-20T00:34:18+09:00
2010-02-20T01:00:17+09:00
aikoh_denki
JR常武線
【常武線を走っていた気動車たち】 常武線沿線にて随時撮影
常武線から国鉄型気動車は去っていったが、それでも筆者は、いい風景を観ることができたと思っている。
華やかさとは無縁な、煤にまみれた旧い気動車たちが、毎日黙々と地域輸送に徹していた。
いうまでもなく、筆者は鉄道ファンである。
ゆえに、「鉄道車両」としての常武線の国鉄型気動車たちが好きだった。
だが、本当は、彼らを通じて、「鉄道のある風景」を感じ取るのが好きだったのだろう。
春の陽光の中でも、夏の炎熱の中でも、秋の月明かりの下でも、冬の極寒の中でも、そこには鉄道を使う人々の日常の息遣いが感じられる。
毎日変わることのない日常が、それでも確実に時を刻み続ける証として、鉄道は走っているようにも思える。
常武線に限らず、地方路線ではよくあることかもしれないが、常武線と、そこを走っていた旧い国鉄型気動車を通じて観ると、鉄道を取り巻くあらゆる風景が、なぜか身近に、そしていとおしく感じられた。
乗客や沿線の人々の一挙一動。
鉄路を担う鉄道員たちの眼差し。
そして路線を取り巻く街並みや自然。
そして、そんな風景が、当たり前にそこに存在していることのありがたさ。
筆者が「新型気動車」キハ110系を嫌った理由は、そんな常武線の日常を毀されることが嫌だったからに他ならない。
だがキハ110系も、登場から14年を経て、もう十分に常武線の日常に溶け込んだことだろう。
それが今の常武線の日常だというのなら、嫌う道理はないはずだ。
鉄道の魅力は、車両だけではない。
それをとりまく日常や光景にこそ、鉄道の真の魅力がある。
日常あっての鉄道だということ、そして鉄道あっての鉄道車両であり、我々鉄道ファンだということを、決して忘れてはならない。
…そろそろ乗りに行くとするか、大好きな常武線に。
JR常武線 -関東最後の国鉄型気動車の王国を訪ねて- -完-]]>
新鋭
http://josoexp.exblog.jp/12869847/
2010-02-20T00:11:00+09:00
2011-10-20T00:34:18+09:00
2010-02-20T00:11:53+09:00
aikoh_denki
JR常武線
【キハ111 107】 1996年6月12日 土浦駅にて
長らく国鉄型気動車が割拠していた常武線に、ついにこの日がやってきた。
1996年3月16日をもって、JRが誇る高性能気動車・キハ110系列が高崎区に大量投入され、八高・常武線用として長らく使われていた国鉄型気動車を一掃したのである。
同時に八高線は八王子-高麗川間が電化され、川越線や青梅線と一体化した運転形態に移行し、八王子-高麗川-土浦といった八高・常武を走りぬくロングラン運用は消滅。
こうして、生まれてこのかた兄弟同然のように扱われてきた八高線と常武線は、バラバラに寸断されてしまった。
そしてなによりも、「関東最後の国鉄型気動車の王国」が瓦解したという事実。
時代の流れとはいえ、そこにはもう、筆者の観たい風景はなかった。
ゆえに筆者はこのキハ111-107を撮影して以来、常武線に乗るどころか、訪ねることもしていない。
<以下、作者メモ>
【実車番号:キハ111 107】 1993年6月12日 磐越東線郡山駅にて撮影
私は実のところ、JR常武線の「筆者氏」ほど、キハ100・110系列を嫌ってはおりません。
そのスマートな外見と鋭い走りは、国鉄型気動車とはまた違った魅力があると思っています。
曲がりなりにもキハ100・100系列はJR東日本の非電化線区の主役であり、気動車を趣味の対象とする者からすれば、
旧型だろうが新型だろうが、何ら変わることはありません。むしろ愛でるべき存在です。
【キハ52 123】と【キハ110 107】 1991年7月31日 小海線小淵沢駅にて
そして、今では気動車の世代交代の早さに驚かされるばかりです。
国鉄型気動車が、キハ10の登場から、キハ20、58、30、45、40…と形式の種類を増やしつつも結局、最終期まで混用され、完全なる世代交代というものを果たせずにいたのに、
JR化後は線区ごとに車種があっという間に統一され、その車両群も20年もしないうちに新車に切り替わるというめまぐるしさです。
キハ100・110系列も、登場から早20年。今では新進のキハE120系やE130系、ハイブリッド気動車E200系に追われる存在になりつつります。
この調子だと、「さよならキハ110」などという列車が運行される日も、案外近いのではないかと思ってしまいます。
【キハ110 4 急行陸中】 1991年8月25日 東北本線盛岡駅にて]]>
交換
http://josoexp.exblog.jp/12848523/
2010-02-15T23:23:00+09:00
2019-07-08T21:23:38+09:00
2010-02-15T23:23:27+09:00
aikoh_denki
JR常武線
【キハ30 34】 1995年8月26日 武蔵笠原駅にて
灼熱の土曜の昼下がり。
部活動に向かう中学生の集団が、武蔵笠原駅の改札口を挨拶とともに次々に通り過ぎる。
委託のおばちゃん駅員は、彼らからきっぷを回収するのにおおわらわだ。
若い彼らを降ろし、対向列車を待ちつつ一息つくのは、八王子行きのキハ30。
熱を帯びた夏の風が、駅裏の田んぼで頭を垂れ始めた稲穂を撫ぜてゆく。
オイルと鉄粉にまみれた40kgレールが、夏草の中で陽炎に揺らめく。
しばらくして、構内踏切が鳴り始めた。
目をやると、二条の鈍色の上を、のそのそと巨体を揺らしてキハ40がやってくるのが遠くに見える。
キハ40を迎え、信号が変わればこちらの休憩は終了。発車時間である。
何気ない夏の風景。
だが、この夏は、常武線の国鉄型気動車たちにとって、最後の夏でもあった。
<以下、作者メモ>
【実車番号:キハ30 34】 1998年8月25日 久留里線横田駅にて撮影
この当時、既に八高線電化から2年が経ち、私はもはやこの世に朱色5号のキハ30・35は存在していないと思っていました。
したがって、この【キハ30 34】との思わぬ再会は、非常に驚いたとともに、うれしかった思い出があります。
木更津から上総亀山まで赤いキハ30で往復して、最後に木更津を去る時には、ヤマトタケルノミコトの伝承よろしく、そこを去りがたいものがありました。
この時乗ったのが、今のところ、私にとって最後のキハ30の乗車記録となっています。
(ちなみにキハ35については、1999年3月20日に和田岬線で乗車したのが最後の乗車記録です。そしてこの記録は二度と更新されません…)
当時は今のようにインターネットもあまり発達しておらず、どこにどんな車両がいるかを知る手段は、非常に限られていました。
「旅先でどんな車両に当たるのかを楽しみにする」というのも、鉄道旅行の醍醐味だったのですが、今では嫌でも情報が入ってきてしまいます。
確かにそれは便利ではありますが、旅の魅力を幾分かスポイルしているとも思います。]]>
灼熱
http://josoexp.exblog.jp/12679519/
2010-01-16T20:11:00+09:00
2011-10-20T00:34:18+09:00
2010-01-16T20:11:40+09:00
aikoh_denki
JR常武線
【キハ30 34】 1995年8月26日 車内にて
「暑い…」
車内に立ち入った者は、誰もが口にした。
そして、席に着くなりみなこぞって窓を開けるのが、常武線に限らず、一昔前の鉄道の光景のひとつだった。
効きは弱いが曲がりなりにも冷房車であるキハ38が編成中にいようものなら、それだけで安堵したものである。
たまにやってくるキハ28・58の冷房車は天国のようにすら感じられた。
しかし、常武線の冷房車はしょせん少数派。
主力のキハ23・45・30・35・40には、ただの1両にも冷房は付いていなかった。
キハ40は、寒地仕様車が来ると、下段上昇・上段下降式の窓のため全開できず、がっかりした覚えがある。それに比べて暖地仕様は、上段も下段も上昇して全開できた。
キハ30・35は上段も下段も上昇して全開できたが、通常の電車でいう戸袋部の窓だけは「手をださぬよう」という無愛想な表示がしてあって、気休め程度にしか窓が開かなかった。
だが、どちらにしろ窓を開けても生ぬるい風が抜けていくだけ。
外を見れば線路際の夏草がラジエータファンに踊り、大きな農家の庭先では子供たちが水浴びをしている。
天井の扇風機は顔だけは涼しいふりをして、暖かい風を送りつけてくる。
走行中ならまだしも、交換待ちの長時間停車などは耐えられるものではなかった。
セミの合唱とエンジン音を聞きながら、ひたすらに対向列車の到着を待つ。
じわりとにじむ汗が気持ち悪い。
だが、永遠に続くと感じられるようなそんな時間も、当たり前だが永遠ではなかった。
そして、それは今となっては、二度と体験できない時間になってしまった。
<以下、作者メモ>
【実車番号:キハ30 34】 1998年8月25日 久留里線にて撮影
キハ30・35には相模線や八高線で散々乗っていましたが、車内の写真はこれ1枚しか手元に残っていません。
キハ30の特徴たる、戸袋がなく彫りが深い外吊りドアや、わずかしか開かない戸袋部の窓の開口具合がよくわかります。
しかし、この写真を見てるだけで、あの頃の暑さがよみがえります。
この時、編成内にキハ38がつながっていて、写真奥に写っているおばちゃんにも「隣のほうが涼しいよ」と教えてもらった覚えがあります。
結局、おばちゃんも私も移動しなかったのですが…。手前に写っているのはツレで、彼もしきりに暑がっていました。
最後に、車内に入ってきた蛾です。
存外おとなしかったので、こいつとしばらくの間、旅を楽しんだのもいい思い出です。
虫が進入するのも、非冷房車ならではの出来事といえましょう。]]>
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